福島県南相馬市 3

早く書かなきゃと思いつつ、気づけば5月も終わり。

震災から、もうすぐ3ヶ月。ボランティアに参加させてもらってから、もう1ヶ月が過ぎました。

津波の被害の恐ろしさ。福島第一原発の事故。帰りに立ち寄った鹿島区役所で行われていた、スクリーニング検査。0.3、0.2マイクロシーベルトという数値。

ほんの少しでも手伝いをさせてもらえれば、と思っていた。ただの自己満足に過ぎないとしても。

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全国から集まった、ボランティアの人たち。

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原町のボランティアセンターで出会った、小学2年生の琉偉(るい)くん。お母さんの手伝いをしに来ていました。メガネの人は、東京からボランティアに来ていた、さとしさん。

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琉偉君とお母さん。原町でも、鹿島でも、地元の人たちも、大勢ボランティアとして働いていました。

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車中泊の予定だったボランティアたちに、寝床を提供してくださった地元の消防団長さん。

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単身ボランティアに参加しておられた、Wさん。

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年齢も職業もさまざまな人たちが、全国各地から集まっていました。

兵庫県からバイクで(!)来たという女の子、mixiでの友達同士だという二人組の女の子たち。その勇気と行動力には、頭が下がります。

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日ごと変化する被災地を取り巻く状況、情報。中でも、福島第一原発に関する状況は、収束どころか悪化の一途をたどっている。

それでも、「大丈夫だ」と思っていたかった。

けれど、もう誰がどう見ても、最悪の状況を通り越している。

皆に避難してもらうわけには、いかないのか?政府は今すぐにでも、福島県全域に避難命令を出すべきじゃないのか?

あそこで生きている、この先も生きようとしている人たちのために、今できることは何だろうか?

とにかく、自分にできることをやっていくしかない。どんなに小さなことでも。

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最後になりましたが、3日間のボランティア活動でお世話になった、このお二人に。心から感謝します。

原町のボランティアセンターの駐車場で、たまたま隣合った車。運転していた原さんは静岡県からの参加。同乗していたサトシさんは、なんと僕の住む国分寺市の隣町、小平市から参加していました。

僕の車のナンバーを見て「あれ、多摩ナンバーだね。どこから来たの?」と、声をかけてくれた原さん。

お二人は2週間前にもボランティアに参加されていたとの事で、色々と教えてもらいました。3日間一緒に行動させて頂き、とても心強かったです。本当にありがとうございました。

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あの、おばあさんの声が、頭から離れない。

「そうだよ、福島のコメはおいしいんだから」

「コメ作っちゃダメって言われたの。原発で」

「津波で、みんな死んじゃったよ」

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美しい山の風景。汚染されて、それでも甘く柔らかな空気。夜、一人でふと見上げた夜空。今まで見たこともない、怖いくらいに綺麗な星空。

暖かい笑顔。負けずに生きていこうという、心。

福島は、いいところでした。本当に。

出来ることなら、もっと違った形で行きたかった。

でも、必ずまた行きます。

被災地の皆さんの心に、暖かい光がいつも降り注いでいますように。

福島県南相馬市 2

2日目。南相馬市鹿島区、真野川下流の河川公園。

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ここで、流れてきたゴミや瓦礫などの清掃、片付け。気の遠くなる広さを、協力して掃除するボランティアの人たち。

この日は天候が悪く、午後2時過ぎには作業中止の指令がボランティアセンターから伝えられました。

屋外での作業が多いので、安全確保のため雨が降ってきたら作業は中止しなければならないそうです。放射線の関係もあって、との事。

そんなわけで3時過ぎには片付けも終わり。

夕方まで時間が余り、

そして、

今回ボランティアに参加させてもらっている間に、もし時間があったら、いや、どうしても、しておきたかったこと。

海沿いの光景を見に行くこと。

野次馬だと思われるかもしれない、いや、実際そうなんだろう。

そう思われてもいい。とにかく、何が起こったのかをこの目で確かめたかった。

海沿いに出るための道を教えてもらい、車で向かう。

そして目の前に広がったのは、あまりにも非現実的な光景。

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どこまでも圧倒的な、絶望的な現実。

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言葉が出なかった。

 

今回、震災が起きてから、ずっと心の中にくすぶっていた想い。

「行って、何かしたい。ほんの少しでも、何か手伝いたい」

そう思っていた。その気持ちは、ボランティアに参加できたことで、少しだけ軽くなった。

同時に、この光景を見て「いったい自分に、何ができるというのか」そうも思った。

だけど、今この瞬間も、あそこで生きている人たちがいる。

地震が起きて、津波が来て、原発の事故が起きて。

放射線が降る中で、それでも前を向いて生きている人たちがいる。

それが良い事なのかはわからない。いや、可能なら、避難して欲しい。東京もすでに安全ではないだろうけど、少しでも遠くへ逃げて欲しい。

それでも、許される限りそこで生きていたいと願うなら、希望を捨てずに生きていくと言うのなら、自分もできる限りの支援をしたい。

他人事でいたくなかった。あそこには友達が、

大切な人の家族がいる。

 

次回で最後です。ボランティアに参加させてもらっている間に、お世話になった人たちのことを書きます。

福島県南相馬市 1

4月の28日午後9時に国分寺市を出発し、国立府中インターから中央道、首都高速を経由して東北自動車道を一路北へ。

福島西インターで高速を下り、東へ。

川俣町を通り、飯舘村を通過して、さらに東へ。

29日午前3時。福島県南相馬市、原町に到着。

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というわけで、4月29日~5月1日の3日間。福島県南相馬市で、ボランティアに参加させて頂きました。写真は原町のセンターの駐車場で、夜が明けたところです。

瓦礫の片付けなどを手伝わせてもらうつもりで行ったのですが、そういった作業は海に近い鹿島区のセンターで専門に受け付けているとの事でした。

そんなわけで、鹿島区のボランティアセンターへ移動。以後3日間、こちらで作業をさせてもらいました。

入り口には、こんな掲示が。

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初日、4月29日は鹿島区の住宅へ。築60年近くなるという木造の住宅で、床板をはがして泥をかきだしたり、散乱した瓦礫(ここでは、そう呼ばせてください)を片付けたり。自分を含め十数人のボランティアで、作業をさせてもらいました。

写真は、作業をさせて頂いたお宅の周りの風景です。

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海まではまだ、2kmくらい離れている場所。にも関わらず、田んぼだったところは、津波に流されてきた一面の泥。家や車の残骸。

そして自衛隊の車両、作業をしている隊員の皆さん。

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別の場所で、国道のすぐ脇に、流されてきた漁船が乗り上げているのを見ました。

この日、手伝いをさせてもらったお宅のおばあちゃんが言っていた言葉。

「うちはね、コメ農家なの。でも、コメ作っちゃダメって言われたの。原発で」

「コメ農家なのに、コメをよそから買わなきゃならない。これから先、どうやって生きていけばいいかわからない」

 

何回かに分けて、アップしていきます。

正直、写真を載せたりしていいのかどうか、わからない。

けど、行ったからには、伝えたい。

今、現在も、こんな状況の中で、あるいはもっとひどい状況の中で、生きることを余儀なくされている人たちがいる。

そのことを、自分の伝えられる限りで、ほんの少しでも。伝えたいと思います。