歩道橋の上から

見かけた革ジャンに息切らし駆け寄った、人ごみの中。

ドキドキすることは、やっぱり未だに止められません。具体的に何かは、まあ秘密です。

さあてと、最低でも週に一度、出来れば3日に一度のペースで更新しているブログでも書くかなー。

ん?

あれ?

おかしいな。

目の錯覚か?

えーと、前回の更新が11月の…11月?

11月の…8日?

じゃあ今日は11月の20日だな、うん。1週間以上過ぎちゃったけど、このくらいなら仕方ないよな。

いやー、今年もあと1ヶ月と少しかー。

…。

あれ?

12…月?

20…日?

今日?

いやいや、そんな馬鹿な。今年があと11日しか残っていないなんて、そんな馬鹿なことがあるはずない。

そうか…

12月か…。認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものを…。

12月と言えば、なんだったっけな。忘年会だな。今年は会社の忘年会はナシ、とのことだから例年通りG犬たちに連絡を取るかな。

と、いつもの仲間に忘年会のお誘いをかけたところ、篠D君から「今年は参加できない」との連絡が。

小一時間かけて理由を問い詰めたところ、

・引っ越すらしい
・予定は3月らしい
・一人ではないらしい
・大リーガーらしい

以上のような情報が手に入りました。

何だかよく分からないが、どちらかと言うとめでたい感じがしないこともないので、これ以上は追求しないことにします。とりあえず。

友よいざ進め、己が信ずるままに。君の目の前の信号は、青だ。

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もっと勝手に恋したり

お、いかんいかん。そろそろ更新をしなければ。

ええと。ワインレッド。消えそうに燃えそうな、ワインレッド。

なんでしょう、この「ワインレッド」という言葉に含まれた、何というか、切なさというか、うまく言えないですが。高校生の頃、同級生のT君が持っていたギブソンのレスポールは、それはそれは綺麗なワインレッドでした。

そしてこのたび、我が家にまた家族が増えました。

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フェン田テレ子です。家族とか言って、苗字違うじゃん。

テレ子はパッと見は黒に見えますが、実は違います。「ミッドナイトワイン」という色です。音もいかしてますが、正直見た目に魅かれて買いました。

でも、冷静になって見ると、普通の紫に見えないこともな…いやいや、ミッドナイトワインです。というわけで、毎晩ジャカスカ弾き倒してます。

更新をサボっている間に増えた家族は、実はもう一本あるのですが。それはまた次回。

え?

もう増えませんよ。ホントですよ。

たぶん。

まさかの2連投

今ですね、これを聞いてました。

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懐かしい。何年前だ?これ作ったの。

mishearing 「first blow」

もう5~6年前になるんだろうか。あの時やりたかったこと、全てではないけれど、限りなく目一杯を詰め込んだアルバム。

熊ちゃんにミックスしてもらったのも良かったけど、今になってみるとやっぱり自分でミックスしたヤツの方が良い。完成度としてはイマイチなのかもしれないけど、全てがまぎれもなく「自分」だ。

大切な何かを思い出した、そんな夜。

言い訳なんて聞きたくない

と思うので、忙しいのにかまけて怠けている自分に、課題を課すことにしました。

ブログを週に一回は更新する。

のが、その一つ。

いやー、3日に一回くらいはいきたいなあ。

ツイッターやる暇があったらブログも書け、という話ですか。そうでもないですか。

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空が綺麗だって、心から言えなくなってしまったけど。それでもやっぱり、綺麗なものは綺麗なんだ。

そうは思いませんか?

SENSE

Mr.children STADIUM TOUR 2011 SENSE -in the field-

2011年9月4日。日産スタジアムにて。

「一生に一度でいい、彼らのライブを見たい」

その夢が、かないました。

6万5千人の観客の中で。

震災が起きてから、彼らの抱えていたであろう想いをこめて。おそらく関わっている全てのスタッフの人たちの想いも乗せて、響きわたる歌。演奏。音楽。

無駄な装飾を省いた、シンプルなステージ。いつものサポートメンバーの姿はなく、ただ一人キーボードの小林武史さんを加えただけの編成。

このツアーのために考え抜かれたであろうセットリスト。勇気を、希望を、力を与えたい。届けたい。そんな想いが全ての曲から、時に優しく、切なく、そして力強く伝わってくる。

終盤、ダメだ、と思ったのに、涙が出てしまった。歌を聴いている間中、涙が止まらなかった。

ライブを見て、泣いてしまったのは初めてだった。

震災の後、itunesのダウンロード限定で発表された曲。あの曲を聴いた時に、胸にあふれた気持ち。

それが何なのか、あの時はまだわからなかった。でも、会場で桜井さんが歌っているのを見て、聞いて、やっとわかった。

東北の、被災地の人たちの苦しみに比べたら、本当に微々たるものかもしれないけど。

ある意味、皆が被災者なんだ。皆がショックを受け、傷つき、悲しんでいた。直接、間接を問わず。

何かをしなければと思っていた、何ができるのかと思っていた。とにかく、東北の人たちのために何かしなければ。そう思って、本当にささやかながら、自分にできることを少しだけさせてもらってきた。それでも、もっともっと。もっとしなければ。他にも、自分なんかよりずっとずっと、頑張っている人たちがいる。苦しい中でも生きている人たちがいる。

でも、この歌が、そんな気持ちを優しく包みこんでくれた。

 

「僕らは、思っていた以上に 脆くて 小さくて 弱い」

「けど風に揺れる稲穂のように 柔らかく たくましく 強い」

 

「ひとつ、ふたつ もうひとつと揺れてる 灯火に似た 消えない希望の歌」

人が生きるか死ぬかって時に、音楽は役に立たないかもしれない。でも、音楽でしか出来ないこともある。彼らの音楽にしか、出来ないことがある。

スタジアムツアーの最後、宮城での公演の成功を祈っています。彼らの想いが、皆の想いが届きますように。

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まだまだ語りつくせないくらい素晴らしいライブでしたが、最後に。

あきらめずに申し込んで、チケットを取ってくれてありがとう。おかげで、本当に素晴らしい、最高のライブを見せてもらうことができました。

あなたと、ご実家の皆さんにも、どうか想いが届きますように。

 

ラジオ

何度か書いてることですが、うちにはテレビがありません。

なので、いつもラジオを聴いてます。

今日、仕事帰りの車の中でJ-WAVEを聞いていました。ゲストに、スキマスイッチが出ました。

新曲の紹介に続き、DJのピストン西沢と愉快なトークを一通り繰り広げた後に、3月11日の震災の話へ。

ボーカルの大橋君いわく、「あの日以降、歌おうという気持ちになれない時もあった。だけど結局、僕らは自分たちでいる事をがんばろう、という結果になった」

「震災で傷ついた人たちが、また音楽を聴きたいという気持ちになった時に、僕らが変わらずにいて、歌を聴いてもらえたらいいと思った」

4月、多くの海外アーティストが来日をキャンセルする中、それでもやってきてくれたMR.BIG。思い出すと、今でも涙が出る。

今の自分にできること。やらなければならないこと。

震災から2週間という時期に「人が生きるか死ぬかって時に、音楽は99%役に立たない」と言いながら、自分たちに出来ることはロックミュージックを奏で続けること、とステージに立ってくれたthe pillows。

変わらずにいること。自分でいること。

何かしなきゃ、早くまた行かなきゃと、ずっと思っていた。でもまとまった休みを取れず、4月末以降ずっと気持ちが募ってばかりいた。頑張っている人たちがいるのに、手伝いに行きたいのに。

でも今日のラジオを聞いて、多分他の人たちがとっくに気づいているだろう事に、ようやく気づくことができた。

今、自分が、ここでやらなければならないこと。

自分が、自分でいること。

冷静に足元を見つめれば、できることは自ずと見えてくるはずだ。

もうすぐ、震災から6ヶ月。

本日をもって大規模災害派遣の任務を終えられた自衛隊の皆様へ。本当にお疲れ様でした。心から、感謝と敬意を表します。

震災、そして原発の事故で苦しみながらも、それでも前を向いて生きておられる皆様へ。心からお見舞い申し上げると共に、復興をお祈りしています。

mishearingとしてはすっかりご無沙汰になってしまいましたが、今はとりあえず無性にギターが弾きたいです。

また近いうちに。

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福島県南相馬市 3

早く書かなきゃと思いつつ、気づけば5月も終わり。

震災から、もうすぐ3ヶ月。ボランティアに参加させてもらってから、もう1ヶ月が過ぎました。

津波の被害の恐ろしさ。福島第一原発の事故。帰りに立ち寄った鹿島区役所で行われていた、スクリーニング検査。0.3、0.2マイクロシーベルトという数値。

ほんの少しでも手伝いをさせてもらえれば、と思っていた。ただの自己満足に過ぎないとしても。

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全国から集まった、ボランティアの人たち。

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原町のボランティアセンターで出会った、小学2年生の琉偉(るい)くん。お母さんの手伝いをしに来ていました。メガネの人は、東京からボランティアに来ていた、さとしさん。

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琉偉君とお母さん。原町でも、鹿島でも、地元の人たちも、大勢ボランティアとして働いていました。

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車中泊の予定だったボランティアたちに、寝床を提供してくださった地元の消防団長さん。

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単身ボランティアに参加しておられた、Wさん。

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年齢も職業もさまざまな人たちが、全国各地から集まっていました。

兵庫県からバイクで(!)来たという女の子、mixiでの友達同士だという二人組の女の子たち。その勇気と行動力には、頭が下がります。

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日ごと変化する被災地を取り巻く状況、情報。中でも、福島第一原発に関する状況は、収束どころか悪化の一途をたどっている。

それでも、「大丈夫だ」と思っていたかった。

けれど、もう誰がどう見ても、最悪の状況を通り越している。

皆に避難してもらうわけには、いかないのか?政府は今すぐにでも、福島県全域に避難命令を出すべきじゃないのか?

あそこで生きている、この先も生きようとしている人たちのために、今できることは何だろうか?

とにかく、自分にできることをやっていくしかない。どんなに小さなことでも。

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最後になりましたが、3日間のボランティア活動でお世話になった、このお二人に。心から感謝します。

原町のボランティアセンターの駐車場で、たまたま隣合った車。運転していた原さんは静岡県からの参加。同乗していたサトシさんは、なんと僕の住む国分寺市の隣町、小平市から参加していました。

僕の車のナンバーを見て「あれ、多摩ナンバーだね。どこから来たの?」と、声をかけてくれた原さん。

お二人は2週間前にもボランティアに参加されていたとの事で、色々と教えてもらいました。3日間一緒に行動させて頂き、とても心強かったです。本当にありがとうございました。

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あの、おばあさんの声が、頭から離れない。

「そうだよ、福島のコメはおいしいんだから」

「コメ作っちゃダメって言われたの。原発で」

「津波で、みんな死んじゃったよ」

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美しい山の風景。汚染されて、それでも甘く柔らかな空気。夜、一人でふと見上げた夜空。今まで見たこともない、怖いくらいに綺麗な星空。

暖かい笑顔。負けずに生きていこうという、心。

福島は、いいところでした。本当に。

出来ることなら、もっと違った形で行きたかった。

でも、必ずまた行きます。

被災地の皆さんの心に、暖かい光がいつも降り注いでいますように。

福島県南相馬市 2

2日目。南相馬市鹿島区、真野川下流の河川公園。

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ここで、流れてきたゴミや瓦礫などの清掃、片付け。気の遠くなる広さを、協力して掃除するボランティアの人たち。

この日は天候が悪く、午後2時過ぎには作業中止の指令がボランティアセンターから伝えられました。

屋外での作業が多いので、安全確保のため雨が降ってきたら作業は中止しなければならないそうです。放射線の関係もあって、との事。

そんなわけで3時過ぎには片付けも終わり。

夕方まで時間が余り、

そして、

今回ボランティアに参加させてもらっている間に、もし時間があったら、いや、どうしても、しておきたかったこと。

海沿いの光景を見に行くこと。

野次馬だと思われるかもしれない、いや、実際そうなんだろう。

そう思われてもいい。とにかく、何が起こったのかをこの目で確かめたかった。

海沿いに出るための道を教えてもらい、車で向かう。

そして目の前に広がったのは、あまりにも非現実的な光景。

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どこまでも圧倒的な、絶望的な現実。

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言葉が出なかった。

 

今回、震災が起きてから、ずっと心の中にくすぶっていた想い。

「行って、何かしたい。ほんの少しでも、何か手伝いたい」

そう思っていた。その気持ちは、ボランティアに参加できたことで、少しだけ軽くなった。

同時に、この光景を見て「いったい自分に、何ができるというのか」そうも思った。

だけど、今この瞬間も、あそこで生きている人たちがいる。

地震が起きて、津波が来て、原発の事故が起きて。

放射線が降る中で、それでも前を向いて生きている人たちがいる。

それが良い事なのかはわからない。いや、可能なら、避難して欲しい。東京もすでに安全ではないだろうけど、少しでも遠くへ逃げて欲しい。

それでも、許される限りそこで生きていたいと願うなら、希望を捨てずに生きていくと言うのなら、自分もできる限りの支援をしたい。

他人事でいたくなかった。あそこには友達が、

大切な人の家族がいる。

 

次回で最後です。ボランティアに参加させてもらっている間に、お世話になった人たちのことを書きます。

福島県南相馬市 1

4月の28日午後9時に国分寺市を出発し、国立府中インターから中央道、首都高速を経由して東北自動車道を一路北へ。

福島西インターで高速を下り、東へ。

川俣町を通り、飯舘村を通過して、さらに東へ。

29日午前3時。福島県南相馬市、原町に到着。

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というわけで、4月29日~5月1日の3日間。福島県南相馬市で、ボランティアに参加させて頂きました。写真は原町のセンターの駐車場で、夜が明けたところです。

瓦礫の片付けなどを手伝わせてもらうつもりで行ったのですが、そういった作業は海に近い鹿島区のセンターで専門に受け付けているとの事でした。

そんなわけで、鹿島区のボランティアセンターへ移動。以後3日間、こちらで作業をさせてもらいました。

入り口には、こんな掲示が。

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初日、4月29日は鹿島区の住宅へ。築60年近くなるという木造の住宅で、床板をはがして泥をかきだしたり、散乱した瓦礫(ここでは、そう呼ばせてください)を片付けたり。自分を含め十数人のボランティアで、作業をさせてもらいました。

写真は、作業をさせて頂いたお宅の周りの風景です。

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海まではまだ、2kmくらい離れている場所。にも関わらず、田んぼだったところは、津波に流されてきた一面の泥。家や車の残骸。

そして自衛隊の車両、作業をしている隊員の皆さん。

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別の場所で、国道のすぐ脇に、流されてきた漁船が乗り上げているのを見ました。

この日、手伝いをさせてもらったお宅のおばあちゃんが言っていた言葉。

「うちはね、コメ農家なの。でも、コメ作っちゃダメって言われたの。原発で」

「コメ農家なのに、コメをよそから買わなきゃならない。これから先、どうやって生きていけばいいかわからない」

 

何回かに分けて、アップしていきます。

正直、写真を載せたりしていいのかどうか、わからない。

けど、行ったからには、伝えたい。

今、現在も、こんな状況の中で、あるいはもっとひどい状況の中で、生きることを余儀なくされている人たちがいる。

そのことを、自分の伝えられる限りで、ほんの少しでも。伝えたいと思います。

 

 

エイプリル

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都知事選挙に行きました。

祖父を連れて、相模湖に花見に行きました。

リョウ君のライブには行けなかった。ごめんなさい。

最近思うのは、結局自分は自分さえ良ければいいんだなということ。

何だか停滞している感じ。

今の自分に、何ができるのか?

考えてわからなければ、とにかく行動してみればいい。

過去の自分に後悔するのなら、明日は後悔しないように生きればいい。

ひとつひとつ、やっていけばいい。

どうしてもダメな時は、

Goin’ where the wind blows.

風にまかせて、生きればいい。